パズル制作の裏側 第48話

【前回】パズル制作の裏側 第47話


新聞と小説、文脈とパズルと。

 パズル作家は常にパズルを作っている訳ではありません。そういうことをしていたら、やはりパターン化・マンネリに陥る。枯渇してくる。おそらく小説家も。あるいは、あらゆる作成者も同じなのではないでしょうか。そこで必要になってくるのが精神修養、あるいは、情報刷新・気分転換、そして、リフレッシュ。そこで(前回も言いましたが)ニュースサイトなどをよく見回るわけです。 

 本当は新聞を端から端まで丹念に読むと言いたいところなんですが、恥ずかしながら、ずいぶん前に購読はやめてしまいました。家を空けることも多く、処理しきれなかったのです。それでもときたま、人のお宅にお邪魔することがあって新聞を見ると、その豊かさに改めて驚嘆します。新聞を広げる行為・動作を含め、なんと豊饒なる世界。自分では処理しきれなかった広告も(その地域地域の特徴も含めて)なんという広がり。まあ実を言うと、その広告紙を含めた処理に手を焼いて、ネットニュース派になってしまったんですけれども。 

 ともあれ、新聞をたまに見ると、嗚呼こういう実際のブツの(紙の、ということです)少し離れたところから見る一挙見は、ネット的な分割された画面からでは把握できない世界を構成しているのだなあ、と改めて感じ入ります。そして、それはパズルの世界でも同じ。おそらくパソコンでは大きいサイズのマス目を俯瞰するのは不可能。とまでは言わなくとも、向いていませんよね。パソコンだと(もしかしたら、図像化されていなければ)文字の検索などはすることができるかもしれません。人間の目(あるいは頭)では見逃してしまうものをコンピュータは捉えることができますから(パソコンは頭から終わりまで、予断なく・差別なく、逐次的にツラツラとチェックすることが得意ですから。そして情報処理能力が人間より飛躍的に高い。しかも集中力がなくなったり、飽きたりもしない)。 

 最近は人間的に学習する、ゆらぎと迷いを持ったプログラムもけっこうあるみたいですけど。囲碁や将棋のソフトはそうですよね。いままでのパターンを解析していただけだったものが、フジイ名人の奇手みたいなものから推察して、独自思考らしきものをする要素もあるみたいですし。ただ、あれはかなり限定された厳密なルールの中での世界、ルールなしと言ってよい、アバウトな言語・文章の世界とはかなり一線を画していると思います。 

 あ、かなり脱線してますね。 

 最初の話に戻りますと、精神修養あるいはリフレッシュと称して、かなりの映像と文章に接します、私の場合。音楽ももちろん聴くのですが(最近のサブスク的なものには驚嘆します、著作権がらみで生きている身としては、いささか複雑なところもあるんですけれど)、最終的に文章を読むという行為に落ち着くことが多い。そしてニュースやドラマみたいなものにも、もちろん言葉・文章的な要素はあるのですが、何故か小説に立ち戻るんです。しかも、初めてのものではなく、何度も読んでいる小説。 

 10代に読むのと何十年も経ってから読むのでは本当に違う体験です。というより2度めくらいならば、ほとんど初見と同じくらい新鮮に読めます、笑。そして、あまり多くはないのですが、5度読みとかそういう本もあります(そういう場合、部分読みが多いです、もちろん、それも悪くない体験、聖書とか宗教的な本と似ているかもしれませんね)。ただ、それだけ読み込んだ文章でも残念ながら「パズルに使えるかな」という言葉・熟語はそれほど多くない。嗚呼、やっとパズルの話に戻れました、笑。 

 やはり文章というのは文脈のなかでのみ成り立つのであって、個別の言葉・熟語、単独ではそうはならない。だからこそ店の看板・広告のポスター、あるいは雑誌の表紙はその単語を特権的に扱うことによって(例えばロゴが大切なのもそういう部分ですよね)、特異性を主張する。文章はそうではない。そしてパズルのマス目にある言葉・熟語も。パズルのマス目に登場する言葉・熟語はすべてフラットであり、文脈を持たず、ただただそこに唐突にある。なので、不用意にその言葉・熟語を使うことを避けなければならない場合もある。嫌な単語を急に見せられるのは苦痛でしかありませんものね。 

 そして、なにより、てにをは。日本語の文章は「てにをは」なのです。言うまでもなく、パズルには「てにをは」はない。 

 「ひらがな・平仮名・片仮名・カタカナ」そして「訓読み」みたいな展開で書こうとしていたんですが、もうこの文字数。ごめんなさい、続きはまた次号で。 

●このコラムは、難問漢字館Vol.50に掲載されたものです。

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